顕彰会会報寄稿
 菅茶山顕彰会会報26号記事
 「賴山陽を愛した女流画人 平田玉蘊」

―江戸期に咲かせた女性の自立―

  講演要旨 講師:池田明子氏 ノンフィクション作家 

玉蘊の生涯
・天明七年(一七八七)松平定信が老中首座に就いた年、尾道の木綿問屋の二女(長女は夭折)として誕生。父五峯の影響から妹玉葆とともに幼くして画を学ぶ。
・文化二年(一八〇五) 父(享年47歳)が歿し、玉蘊?歳が一家を背負うことになった。
・文化七年(一八一〇) 浄土寺の杉戸に「つる薔薇図」「山桜図」を描くなど、画家として精力的な活動を続ける。
・文化八年(一八一一) 山陽を追って京都へ。画の勉強もしたようである。尾道に残って画家として自立する決断。
・文化十三年(一八一六)「茶山日記」に「一月十一日 玉蘊女史、其の良人?鳴を携えて来り、二物を惠む」とある。文面にペットを連れて行ったという印象がある。
・文政八年(一八二五)「芸潘通志」「尾道志稿」完成。茶山たちによる玉蘊の古鏡図への題詠詩が掲載される。
・天保三年(一八三二)頼山陽(享年59歳)が歿する。
・天保五年(一八三四)天保の大飢饉で世の中は騒然としていた時代。橋本竹下が飢饉救済事業として慈観寺の本堂を再建。玉蘊が襖絵「桐鳳凰図」を描く。
・安政二年(一八五五)、多数の「富士図」を描き、69歳の生涯を閉じる。

玉蘊を支えた人々
・浄土寺 本堂、多宝塔は国宝、重文の豊庫の寺として著名。制作年代不明だが、玉蘊に代表作*「軍鶏図」の衝立などを描かせている。岩に爪を立てている。寂しくて辛い玉蘊の心の叫びが聞こえる。
・尾道の豪商 橋本竹下 屋号 灰屋。町年寄。銀行創設、新田開発なども手がけた。最大のスポンサー。
・菅茶山 廉塾には華岡青州の長男が入門するほど全国的に名を馳せていた。玉蘊の作品を江戸の友人に贈ったり、斡旋もしたようである。
・年下の恋人?鳴 伊勢の出身。広島の俳句集に作品が載せられている。一年前後同棲し一女を授かったが、夭折。
・頼家の人々 山陽の叔父、春風、杏坪、さらに母静子は生涯、玉蘊を支援し続けている。